携帯電話というアイテム

先日までやっていた『絶対少年』などの話を見ていると、最近の現代劇では携帯電話というアイテムをどう物語に取り込むかというのが重要な要素になっていると言えるだろう。あるいは物語によっては、現代劇(時には近未来)なのにもかかわらず、携帯電話の存在をほとんど無視してしまっているものもかなり見受けられる。つまり、物語で携帯電話を扱うとなると、大幅にそれに依存するか、ほとんど無視するかの二者択一になってしまうようだ。
これは、人と人とのコミュニケーションというものが携帯電話(メールを含む)で何から何まで済まされる状況になってしまうからであり、別の状況(直接的な触れ合いなど)を主題に描こうとすると、どうしても携帯電話を排除する傾向になってしまうらしい。

私個人としては、この状況を招いてしまった携帯電話というものは、過去50年ほどの歴史の中で、物語にとって最悪の発明のような気がする。
何というか、風情がない。「いつでもどこでも通信ができる」というのは限られた者のみの特権で、だからこそ物語たり得たのではないだろうか。古典的な物語にとっては、携帯電話は邪魔な存在でしかないようだ。

グラハム・ベルが電話を発明したときも、似たようなことを考えた劇作家がいたのだろうか。