押井守、タランティーノと『レザボア・ドッグス』を語る

立東舎にて連載中の、押井守の映画50年50本(仮)という本に掲載予定とされる押井守コラム。今回は押井監督がクエンティン・タランティーノ作品と『レザボア・ドッグス』について語っております。

押井 タランティーノの映画って、あいつの脚本がいいんだよね。「俺でも書けそう」な気がしちゃう。『レザボア・ドッグス』を見た人は、みんなそう思ったはず。でも、あれをゼロから書くって大変な才能だよ。逆に言うと、監督としてのタランティーノは、僕はそんなに評価していない。はっきり言ってしまえば、まったく評価していない。だけど脚本は、どれも素晴らしい。そのタランティーノらしさが全開なのが『パルプ・フィクション』(94)。なんにもない映画なんだよ。ストーリーもなければ、テーマもない。構成力だけで作った映画。だからこそ、「構成力だけでこれだけ面白く作れるんだ」ということに驚いた。そして早くもその輝きが見えているのが、この『レザボア・ドッグス』。

──宝石強盗の顛末を描いた映画です。

押井 でも、強盗シーンそのものは描いていない。なにもしてない、なにも描いていない映画なんだよ。当時の評判を憶えているけど、「金をかけてないのに、なんでこんなに面白いんだ?」と誰もが首をかしげた。『レザボア・ドッグス』みたいな映画は、昔から山のようにあったんだよ。タランティーノは別に新しいことをやっているわけじゃない。だけど面白い。

──タランティーノは次作で引退すると宣言していますが?

押井 やめるって前から言っていたけどさ。書きたいものを書き切ってしまったのかもしれないけど、もしかしたら監督としての情熱はすでに尽きてしまっているのかもしれないね。自己模倣に入ったような気もするし、ここ最近は冴えない。『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』をやっていたころは、本当に絶好調だったからね。「どこまでいくんだろう!?」と思ったもん。『キル・ビル』(03・04)からおかしくなっちゃった。

──『キル・ビル Vol.1』と『キル・ビル Vol.2』ですね。

押井 アイジー(Production I.G)がアニメパートを担当しているから、なんだかんだ絡んでいるんだけどさ。『キル・ビル』が2本になった背景には、いろいろあるらしいよ。でも理由はどうあれ、「切れないんで、2本にしてくれ」って考えは、間違えていると思うよ。ときどきそういう監督がいるんだけどさ。もともと1本の映画で考えていたんだから、1本の映画として完成させるべきであって、1本にならないのは監督のせい。考えを修正してでも1本にすべきだよ。1本のつもりだった映画を2本にしちゃうとね、炭酸が抜けちゃうというか、炭酸が抜けたビールみたいになっちゃう。『キル・ビル』を1本に編集し直したら、きっと面白いよ。

──押井監督だったら、どう編集しますか?

押井 千葉真一のところは全部要らない。ルーシー・リューとの一騎打ちも長すぎる。延々とやっている割にはアクションも大したことないし、長い割には残酷すぎる。要するにさ、全部あいつのお遊びなんだよね。つまり、映画的記憶の再生産。そういう意味ではスピルバーグに近いんだよ。映画の記憶の再生産で1本作ってしまう。スピルバーグと異なるのは、「感動させる」ってことがないところ。タランティーノの映画を見て感動する人はまずいないし、感動させることを本人が目指していないしね。「面白い映画を作りたい」っていうことでさ。

“ダレ場”を作ろうとする一方で、必要ないと思った場面はけっこう容赦なくカットする押井監督らしい感想でしょうか。