遂に「戸田奈津子をおろせ」「字幕を直せ」という署名活動が始まった。
必ず聞く言葉がある「そんなに字幕が嫌なら英語で見ろ」と。当たり前だ。私もそうする。私の理想は、「英語音声を英語字幕で見る」だ(ヒアリングは苦手なゆえ)。極端なことを言えば、原作をヨレヨレになるほど何十回も読んでいる私としては、それこそ台詞が一言も入っていなくても全部話を理解できる。
だが私はこの日本語字幕署名運動に協力した。何故か?
それは、自分のためではなく他の人々のためである。まずは制作者のために。当然制作者としては、こんなふうに物語を破壊される字幕を望むはずがない。制作者が立派な映画を作ったとしても、彼らの関与しない「映画字幕」で駄作にされるのは、あまりに映画製作者にとって不憫ではないか。
そして次は他の観客のために。この映画を見る全員が、この映画の本来の意味、正しい物語を知っているわけではない。そういった人々が「映画字幕」のせいで物語を誤解し、駄作だと勘違いしてしまう。これは勿体なさ過ぎるではないか。戸田奈津子の字幕のためだけに。
にもかかわらず! 日本では未だに戸田奈津子は「最も有名な字幕翻訳者」で、テレビだの雑誌だのに出てきて偉そうに語っている。そして原作、あるいは英語がわからない人間は、字幕を見て作品を判断するしかない。それなのに「字幕は戸田奈津子に任せれば大丈夫」という考えが、先のルーカスフィルムのように罷り通ってしまっている。字幕のせいで作品の質が落とされても、英語がわからない観客は「字幕が悪いから」と考えることすら出来ない。これは映画の本来の制作者にとってあまりに理不尽ではないか。
勿論私は、心から愛する『指輪物語』をこのようにいい加減に扱われているから憤慨したというのもある。だがこの日本の現状、戸田奈津子=字幕の女王というマスコミなどでの扱われ方もどうにかしなければならないという考えもあって、このように訴えているのである。さもなければ何の教訓もなく、また同じ事態が別の映画で繰り返されるだろう。
元々日本の字幕翻訳の現場は酷いらしく、まず翻訳者が足りない、そして翻訳も一週間程度で行わなければならないという話だ。しかしせめて問題提起だけでも、そして「20世紀最高の文学作品」指輪物語の映画に、せめてそれに相応しい字幕を、それだけでも願って。