このような『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕に、当然、原作を知るものからは大きな批判が上がった。字幕版と同時に公開された日本語吹き替え版の方は、脚本意図も理解し非常に良くできた翻訳だったので、余計に戸田奈津子に対する批判が集中した(「Your not yourself!」は吹き替え版では「ボロミアじゃなくなってる!」と訳されている)。
戸田奈津子は、自分で本を書いたりTVや雑誌に出たりするなど、とにかく「有名な翻訳者」だ。だがそれらでいつも戸田奈津子本人の口から聞かれるのは「字幕は制約があって大変」「多くのことを知らなければならない」「意訳が大切」という自画自賛ばかり。しかも映画公開後、戸田奈津子が映画雑誌に連載しているコラムに以下のようなものが出た。
(前略)
私は本好きであったが、何故か「指輪物語」は手にしたことがなく、この不思議なファンタジーの世界に足を踏み入れたのは今回が初めて。そのために、愛読者達が翻訳版の人名、地名、キャラクターの言葉遣いなど、すべてに深い愛着を持っていて、それを尊重しないと、彼らから轟々と抗議の声が巻き起こることを、思い知った。
例えばビゴ・モーテンセンが扮するアラゴルン。彼にはSTRIDERという、通り名がある。「大股で、サッサと歩く男」というイメージである。翻訳本では、これが「馳夫」(はせお)という日本語に訳されていて、愛読者の方々は、「馳夫さん!」と呼びかねないほど、彼に親しみを感じている。
私も子供の頃、登場人物の名前が全て日本語化されているディッケンズの小説を読んだ記憶がある。それが不思議に思われない時代だったのだ。
しかし今は発音どおりのカタカナが通用する時代。(映画の題名まで、ときにはわけのわからないカタカナで公開されてますものね!)
若い映画ファンには、まず「馳夫」という名が読めるかどうか。また突然、こういう日本名が字幕に出た場合の違和感……とまどい。ここは結局、愛読者の方々に涙をのんでいただいて、「韋駄天」(いだてん。これも若い方はあまり知らないだろう。「足の速い人」のことです)に「ストライダー」とルビをふることを妥協策としたのである。
(後略)
これを読んで「結局戸田奈津子は反省したわけでも考えを変えたわけでもなく、『原作オタクが喧しく騒いでいるなあ』と思っただけか」と考えたのは私の被害妄想ではないはずだ。これはどう取っても戸田奈津子の自己弁護に過ぎない。
戸田奈津子は、「発音どおりのカタカナが通用する時代」に、もうついていけない頭をしているのではないか? だから理屈をこねながら「韋駄天」などという言葉を使っているのではないか? 誰もこの言葉が「現代向け」とは思わないだろう? こんな言葉を使うくらいなら「ストライダー」のままのほうがまだずっとましだ。大体「若い人には判らない」ことを覚悟しているなら、「馳夫」で何故いけない?
そもそも「馳夫」よりも、「韋駄天」という言葉の方が遙かに違和感がある。確かに韋駄天は足の速い人を表す言葉でもある。だが元々の韋駄天の意味は、
韋駄天
足がはやいとされる仏教の守護神。釈迦が没したとき、鬼が仏舎利をうばってにげたのを、おいかけてとりもどしたという。もとはヒンドゥー教の軍神だったが、仏教にとりいれられて、修行者が悪鬼になやまされているときに、かけつけて、たすけると信じられている。サンスクリットではスカンダといい、禅宗の寺院では、はしりまわって食事の支度をする神と信じられ、食堂にまつられる。"韋駄天" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) 1993-2000 Microsoft Corporation. All rights reserved.
というものだ。つまりヨーロッパ的世界観の中で「韋駄天」という言葉を使うのは、日本の時代劇に出てくる足の速い人間に対して「アキレス(*1)」だの「メロス」だの「スプリンター」だのという名を付けるようなものである。アーサー王の剣「エクスカリバー」を「草薙の剣」と訳す人間がいるか? そもそもルビが付けられるなら、何故“「馳夫」という名が読めるかどうか”心配する必要がある?
戸田奈津子本人のコメントはもちろんだが、他の映画関係のマスコミも、「戸田奈津子は偉大だ」の一点張りである。先に、「字幕問題が週刊誌などで取り上げられた」と書いたが、これを取り上げたのはあくまで一般誌。本来真っ先に取り上げるべき映画誌はこの問題を、それまでも、そしてそれ以後も無視し続けているのである。例えばeiga.comでは、
とださん【戸田さん】
映画字幕翻訳家にして、多くの大物スターから指名がかかる通訳、洋画界のファーストレディーこと戸田奈津子氏。(終了したが、CX系の番組「ハンマープライス」でもお馴染み )。その仕事ぶりは質・量ともに想像を絶するものがあり、手がけた作品が1年間の週の数を上回った年もあるほど。戸田さんの翻訳の白眉は、逐語的な「正確さ」よりも、字数が極度に制限された中で、「映像の言葉」のエッセンスや情感を巧みに感じとって抽出し、それを読み易くて短い日本語(文字)に置き換えることの巧みさにある。逐語的な「間違い」を発見しては得意気に指摘する人もよくいるが、それはお門違いというもの。また、今後は、淀川先生が亡くなられてすっかり寂しくなってしまった映画界の「顔」の役割も担ってくれるはずだ。関係ないけどそば好きで猫も好き。
と、まるで戸田奈津子の弁護人(友達の弁護)みたいな書き方である。日本映画界にとって戸田奈津子はとにかく「神聖で犯してはならない」存在であり、この事件のさらに後を見ていると、よりはっきりと判る。
原註