戸田奈津子氏が担当した『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕問題について

要約

  • 戸田奈津子氏が担当した『ロード・オブ・ザ・リング』日本語字幕の質があまりにひどいとファンが抗議。字幕の修正および戸田奈津子解任を求めた署名運動を行う
  • これは「原作マニアが、字幕の制約を考えずに重箱の隅をつついている」という話ではない
  • もともと戸田奈津子氏は、監督などの演出意図を無視して訳する傾向があった
  • 『ロード・オブ・ザ・リング』では、詳細な「翻訳に関する指示」があるのに、戸田氏はそれをことごとく無視した.。そもそも原作『指輪物語』は売上部数だけ見ても”20世紀最高の文学作品のひとつ”であるのは明確なのにもかかわらず、そのことに対する配慮・敬意が全くなかった
  • 『ロード・オブ・ザ・リング』劇場公開時の字幕は「センスがない」「長さが制限される字幕の制約を受けてどころか、無駄に字幕を長くした訳まである」「意味を間違えたり、原文で一言も触れられていない文を勝手に追加したりしている」「キャラクター設定の根幹にかかわる内容まで字幕でねじまげる」と批判された
  • 原作ファンはなんにでもケチをつけていたわけではない。実際、同映画の日本語吹き替え版の翻訳は高く評価した
  • 『ロード・オブ・ザ・リング』監督のピーター・ジャクソンは抗議・署名活動を受けて「字幕担当者を交代させる」と発言したが、日本配給会社は言い訳めいた声明を出して、抗議活動が行われていることすら認めようとせず、戸田奈津子氏は続投。その結果映画公式掲示板は今でいう“炎上”状態となり、「サーバトラブルにより」閉鎖された
  • 最終的にはDVD版や、『ロード・オブ・ザ・リング』第二部以降での訳は大きく改善された
  • 日本映画業界では「戸田奈津子崇拝」がまかり通り、「戸田奈津子が抗議を受けた」という事実すら黙殺。戸田氏の自己弁護を垂れ流している

序文

原作『指輪物語』ファンを中心とした人々の間で大問題とされ、Web上で抗議署名活動などが発生し、何度か週刊誌などにも取り上げられた話題。映画『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕問題について、私もその騒動を直接見てきたファンの一人として、ここで一つに纏めてみたい。

最初に、妙な自慢かも知れないが、私はこの事態を映画公開前、2001年10月末に予言していた(日本で公開されたのは2002年2月)。だが私も、それがここまで大きな問題に発展するとまでは予測できてはいなかった。

注 この文章は2002年末に纏められたものであり、それ以降の情報は最後に追記という形で記載している。

"The Lord of The Rings"の「言葉」について

映画の字幕の話に入る前に、原作小説『指輪物語』の翻訳について説明する。

『指輪物語』(The Lord of The Rings)の作者であるジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンは言語学者であり、英文学の教授であった。彼が最初に行ったことは物語を作ることではなく、「言葉を作る」事だったのである。
彼が子供の頃から行っていた個人的な遊びに、「自分のオリジナルの言葉を作る」というものがあった。子供なら誰でもそのような、特定の言葉に別の隠語を当てはめるという遊びをするものだが、トールキンはそれに熱中し、完全に独自の言語体系を作り上げた。発音法、文法や活用の変化、複数の種類の文字による表記法など、本当に日常会話が可能なほどの言語体系を作ったのである。子供の頃から言語学に興味を持ち、やがて言語学者になる人物ならではである。

その過程の中で彼は、言葉を詳細に作るには、言葉に歴史が必要だと気が付いた。言葉に歴史を作るには、その言葉を使う民族が必要だ。こうしてトールキンは自分が作った言葉を使わせる民族として、エルフを生み出したのである。その後彼のエルフ語はさらに高度に複雑になり、クゥエンヤとシンダール語という二つの言語に分かれた(これは現在の英語とラテン語の関係に似ている)。さらにトールキンは、エルフの神話を作り上げていった。

トールキンは、母国のイギリスには神話がないと感じていた。世界各国に北欧神話、ギリシャ神話などがあるのに対し、イギリスには自国独自の神話がない。トールキンは、イギリス独自の神話を作ることを始めたのである。その結果、世界創造から始まる壮大な歴史が作り上げられていった。『指輪物語』とは、その世界の中で繰り広げられる物語の一つに過ぎないのである。

このように、元々『指輪物語』が「言語学的興味」から始まったものであるため、トールキンは作中の言語の扱いには特に注意を払った。二種類のエルフ語の他に、ドワーフ語、ローハン語、アドゥナイク語、暗黒語という言葉を作り出していき、作中に盛り込んだ。
トールキンは、『指輪物語』の舞台である中つ国は、かつての地球だと想定していた。そして『指輪物語』は、かつて地球で実際に起こったことなのだと。そのためトールキンは次のように想定した。「『指輪物語』の"原書"である『西境の赤表紙本』は西方共通語で書かれていた。それを私が"発見"し、"英語に翻訳"して世に送り出したのだ」と。
そのため、西方共通語とその他の言語は明確に区別されなければならなかった。『西境の赤表紙本』は、ホビットによって書かれた。物語の主人公であるホビットが使う言葉は西方共通語であり、その他の言語、例えばエルフ語やドワーフ語は見知らぬ言語である。『指輪物語』の読者はホビットの視点になる。ゆえに読者にとって、物語の中で西方語が使われていた場合は馴染み深い言葉だと感じられるのに対し、その他のエルフ語やドワーフ語など言語は、明らかに違う言語であると感じられなければならない。なおかつ我々が、意味は判らなくてもフランス語とドイツ語の違いが感じられるように、エルフ語とドワーフ語の違いも感じられなければならない。
そのためトールキンは、『指輪物語』が英語から諸外国語に翻訳されるにあたり、詳細な"翻訳上の注意"を作成した。単純に言うと、小説の中で英語で書かれている部分はそれを可能な限り翻訳し、その他の言語は発音通りに記さなければならない、というものである。

日本語版『指輪物語』について

日本語版小説『指輪物語』は1972年に出版された。その時の翻訳を行ったのが瀬田貞二氏である。
瀬田氏は、トールキンの意志の再現を試みた。そのため作中に登場する英語は、ほとんどが日本語に翻訳された。その翻訳がとにかく絶妙なのである。例えばStrider(大股で歩くもの)を馳夫はせおとしたり、Rangerを野伏のぶせとするなどといった具合に。ライトノベルやゲーム全盛の現在の日本ならば、そのまま「ストライダー」「レンジャー」とされただろう。だが、そうするとトールキンの意思に反することになるのだ。

しかし確かに瀬田氏の訳は名訳で絶妙ではあったのだが、問題もあった。その一つが固有名詞の混乱である。例えばElessarをある場所では「エレッサル」と書いていて、別の場所では「エレサール」と書いている。Thranduilを「スランデュイル」と書いていたり「スランディル」と書いていたりする。その一方で「エレンディル(Elendil)」と「エアレンディル(Earendil)」は別人だったりと、かなり分かり難かった。『指輪物語』の1000を越える膨大な固有名詞を考えれば、無理もないことではある。

イギリスにて、トールキン生誕100周年記念の『指輪物語』ハードカバー本が出ると、それに合わせて日本語版も版と翻訳を改めようという動きが起きた。そこで、既に他界していた瀬田貞二氏の仕事を引き継いだのが、田中明子女史である。
田中女史は日本語版『指輪物語』初版翻訳当時に瀬田氏の補佐も行っていた。改訂版において田中女史が行ったのは、瀬田氏の名訳の雰囲気を崩さず、固有名詞の日本語訳を統一すること。そして一部の誤訳(トールキンの意志に反した翻訳)を、トールキンの意志通りに直すこと(トールキン自身の『翻訳上の注意』に従い漏れていた点を直す)。さらに、劇中に登場するエルフ語などを、可能な限り実際の発音に近い片仮名で表記することである。その田中女史の姿勢は、トールキンの意志と瀬田氏の訳を非常に大切に扱った立派な仕事だった。

懸念 文章ではなく“物語”を“異訳”する「戸田奈津子で大丈夫か?」

このように、『指輪物語』の翻訳というのは非常に高度で複雑なのである。『指輪物語』の世界は8000年以上の歴史設定があり、固有名詞は5000個以上にも及ぶという。そんな歴史物語を翻訳するというのは並大抵のことではないのは当たり前である。

2001年10月末。「『指輪物語』が実写映画化される。それを見ることができる!」という、かつて夢として待ち望んでいたことの実現が目前ということで私は有頂天であった。だが、私はこの映画の字幕を行うのが、戸田奈津子氏だという事を知って重大な懸念を抱いた。「これで指輪物語(この時『ロード・オブ・ザ・リング』という邦題も既に発表されていた)のまともな翻訳は望めない......」と。
戸田奈津子という名前を聞いた人は多いだろう。年間に何十本もの洋画の字幕翻訳を行っている、日本で一番有名な字幕翻訳家である。だがこの人物は、同時に「誤訳」でも有名だった。
私はこの「誤訳の歴史」にそんなに詳しいわけではないが、例えば映画『フルメタル・ジャケット』では「正しく翻訳していない」と、監督のキューブリックに解任されるという事が起こっている。
一方で、戸田奈津子問題を私が認識したのは『STAR WARS Episode I: The Phantom Menace』の時であったのだが、『STAR WARS』の翻訳についても色々と長い話がある。
まず、それまで『スターウォーズ』は『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの帰還(当時のタイトルは『ジェダイの復讐』)』と何度も公開され、映画・TV・小説・関連書籍・その他コミックからキャラクターグッズに至るまで、翻訳はばらばらで全く統一されていなかった。例えばForceという言葉が「理力」と翻訳されていたことは有名だ。これは最初に劇場公開された時の字幕での訳である。
『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの帰還』という旧三部作を、ディジタル処理によって再編集した『特別編』公開の時に字幕を担当したのは林完治氏。その時にForceを「フォース」、Droidを「ドロイド」などとする訳が行われた。
Droidを「ドロイド」としたなど、訳とは言えないではないかと思われるだろう。それまでDroidはロボットだの何だのと意訳され、「ドロイド」とはされていなかった。しかしDroidはルーカスの造語であり、英語には存在しない言葉である。つまり英語圏の人間にとってもDroidは耳慣れない言葉なのだから、それを勝手に翻訳して日本人に意味が通る言葉にしてしまうのはおかしい。そして『スターウォーズ』の世界観の中ではあくまで「ドロイド」は「ドロイド」であり、「ロボット」でも「アンドロイド」でもないのである。同様にShieldも「バリア」ではなく「シールド」になった。
Forceについては本来この言葉(の英語)には「力」の意味があるので、「理力」というのは間違った訳というわけではないのだが、これも「フォース」という言葉に統一された。
Lightsaberを「ライトセイバー」としたのも特別編の字幕である。それまでは「光線剣」だの「ライトサーベル」だのとされていたのが、本当は「ライトセイバー」が正しい。「サーベル」はイギリス英語の発音なので、アメリカ英語である『スターウォーズ』では「セイバー」と発音しなければならないからだ。
また特別編の翻訳では、それまで無視されていた部分の訳も行われた。例えばEpisode IVの、オビ=ワンが牽引(トラクター)ビームの出力を切りに行くところで、ストームトルーパーの横をすり抜ける。そこでトルーパー達が話している台詞。

そうそう! トルーパーが「VT-16......、あれは相当イイらしいぜ」って話しているシーンね。「VT-16」なんてなんだかわかんらないのにね。なんなんだろう? いまだに気になるんだよなぁ......(笑)。何がそんなに「イイ」のかって(笑)。

こういった、「物語にとっては意味のない言葉」も、それまでの字幕では無視されていたのに対し、ちゃんと翻訳された。この言葉は『スターウォーズ』世界の背景の広がりを見せるために、ルーカスによって入れられたものだからである。

やがて、『Episode I』が公開されることになったとき、その日本語字幕は戸田奈津子氏に決まった。ルーカスフィルム(20世紀フォックスフィルムだったかもしれない)から「戸田氏にやってほしい」と指定してきたという。恐らく「一番しっかりした人にやってもらいたい」「日本で一番有名な翻訳者を」という事になったのではなかろうか。しかし、有名だからといって訳が上手いということではなかったようだ 。

映画を観たとき、冒頭の日本語字幕で、いきなり「バトルシップ艦隊」等という言葉を見てまず私は腰砕けになった。何故「戦艦隊」ではなく「バトルシップ艦隊」なのか? さらに、オビ=ワンとクワイ=ガンがナブーに降り立ったとき、ジャージャーを見て「ローカルの星人だ」というのは一体どこの国の言葉だ? 原文では" A local."と簡単な言葉にされているので、「原住民だ」とか「この星の者だ」としてしまえばいいのに。
他にも「ボランティア軍」だの、どこにも存在しない言葉を勝手に捏造している(もちろんこれは「義勇軍」とすべきである)。これは誤訳というよりは、「言葉を使うセンスがない」というレベルだし、もちろん「短くしなければならない字幕の制約に従った結果」という言い訳も通用しない。

また戸田氏は、自分が理解できない言葉を、別の言葉にすり替える習慣があるらしい。例えば『スター・ウォーズ Episode I』で「マカニク(Mackineek)」という言葉をボス・ナスが使っている。この「マカニク」とはドロイドを表すグンガンの言葉らしいが、本編中ではその事は一言も説明されていない。つまり英語圏の人間にとってもマカニクは謎の言葉であり、物語を見て「ああ、マカニクはドロイドのことか」と想像させるように仕向けられている。「マカニク」という言葉が理解できない人間のことより、世界観が重視されているのである。
だが戸田氏はこのあたりの脚本の意志を完全に無視し、「わからないから」と勝手に「マカニク」を「マシーン」と書き換えてしまった。確かにそれで判りやすくはなっただろうが、それによって『スターウォーズ』の世界観の広がりを潰してしまっている。戸田氏は同様のことを、映画『タイタニック』で行っている。劇中の救難信号を討つシーンで、「CQDを打て」を、「SOSを打て」に勝手に直してしまった。キャメロンは歴史的事実を尊重して、観客に意味が通じないという危険を敢えて冒しつつ「CQDを」としたのに、その制作者の意図を、演出権限など全くないはずの字幕翻訳家が勝手に変えてしまったのである。同様に、『地獄の黙示録』で軍のヘリが墜落する時に「メーデー!」と言っているのを「SOS!」としてしまった。 もちろん軍隊では「SOS」などという言葉は使わない。
このように「字幕でわかりやすくする」等というのは、どう考えても映画製作者の意図に沿わない「余計なお世話」ではないだろうか。

他にもちろん単純な誤解による誤訳もある。人間が翻訳をする以上、どうしても間違いというものは発生する。その間違いをいちいちあげつらっていても仕方がない。だが戸田氏の場合、根本的に字幕翻訳家としての思想に問題があるのではないか。

字幕とは、ないに超したことはないものである。「字幕があるということを意識しない字幕」がもっとも理想なのだ。何故なら字幕翻訳者とは、監督でも演出でもない、単なる黒子なのだから。
「字幕は映画を良くすることは出来ないが、悪くすることは出来る」という言葉があった。そのため字幕翻訳者というのは辛い仕事だ。良い仕事を続けていても滅多に注目されることはなく、悪い仕事(誤訳)だけが注目される。だがこの「黒子」に徹しきれないというのであれば、正しい字幕翻訳者と言えないのではないか。

一瞬の光明 「翻訳慣習がつくのなら……」

以上のような状況により、私は映画『指輪物語』の翻訳に絶望していた。だが、そこに光明が現れた。翻訳監修に、原作翻訳者の田中明子女史が付くというのである。
「それなら大丈夫だ! 原作にしっかりと精通している田中明子女史である。少なくともバクシ版みたいな事にはならない」と。

実は『指輪物語』の映画に字幕が付けられるのは『ロード・オブ・ザ・リング』が初めてではない。1977年にラルフ・バクシ監督によって製作されたアニメ映画『指輪物語』は日本でも公開され、日本語字幕がついていた。だがその字幕の片仮名表記が、ことごとく間違っているのである。例えば"ゴンドール"を"ゴンドー"、"モルドール"を"モードル"というように。ゴンドール(Gondor)とモルドール(Mordor)の、両方とも同じ筈の"dor"(エルフ語で「国」の意)が、ドーになったりドルになったりとてんでばらばらだった。だが、エルフ語のこともしっかり知っている田中女史が付いていれば、少なくともそんなことは起こりえないと。これで一安心だ。

砕かれた希望 「やっぱり駄目だった、それどころか最悪だった!」

2002年2月21日、私は運良く試写会に参加することができた。
結果はどうだったか? 私は唖然としてしまった。とりあえず、固有名詞の片仮名表記だけは基本的に『指輪物語』小説に揃えてあったが、会話文章に「センスがない」限りだった。エルフ(アルウェン)が「ハートとともに(この贈り物を差し上げます)」等と言うのである。「何故『ハート』? 何故『心』にしない?」というような箇所が大量にあったのである。また例によって「物語をわかりやすく」という戸田氏の「習慣」が現れ、例えばアラゴルンの「エレンディル! (Elendil!)」という叫び声(かけ声)を勝手に「突っ込め!」に書き換えている(そもそもこの時アラゴルンはひとりだったのに、誰に対して言っているのか?)。エレンディルとはアラゴルンの祖先の名で、映画でもしっかり説明されている。アラゴルンは、自らの祖先で伝説的英雄である人物の名を掛け声に使ったのだが、その風情も情緒もまったく無くなってしまった(DVDではこれは修正されたが、それでも「父祖の名にかけて!」だった)。
他にも、奈落に落ちようとするガンダルフの台詞"Fly, you fools!"(逃げろ、馬鹿者!)がある。この"Fools"の意味がどれほど大きいかは言うまでもないだろう。今まさに自分が地の底に落ちようとしている時なのにこう言い放つところが、ガンダルフの性格を示している。だがそんなセリフも字幕では「早く行け」だけで片付けられてしまった。

その上キャラの口調は統一されていない。フロドのことを"Master"と言って敬愛するサムが、いきなりフロドに各所でタメ口を始めるのだ。また、ボロミアは自分の父デネソールについて、「執政だった……」と故人のように語っている字幕が付けられていたが、実際にはデネソールは生きていて物語の第三部に登場することが決まっており、キャスティングなどの情報も公開されていた(もちろん原作でも登場する)。これらは、物語に対する理解不足としか言えない。まるで脚本を一回さらっと見てそのまま訳しただけだ。最初から"全三部作"と判っている作品の訳がそれでいいのか?
また、よく「字幕は短くしなければならないから」という言い訳が使われるが、例えば原文で「I am a servant of the Secret Fire,wielder of the flame of Anor.」と言っているところを、字幕では「わしは生命の創造主 秘密アノルの炎につかえる者だ!」としている。いったい原文のどこに「生命の創造主」という意味があるのか? さらにAnorとはエルフ語で太陽の意味なので、勝手に余計な文章を足したうえ、文章(単語)の意味を間違って解釈した字幕を付けている。私はのちに関係者から、翻訳用の資料としてニュー・ライン・シネマが用意したという英語資料を見せてもらったことがあるのだが、その資料には作中に登場するさまざまな固有名詞について、すべて説明がつけられていた。だがそれらは日本語字幕では完全に無視されていたのだ。

そして、最悪の訳と言われることになった点。強力な魔力を秘めた一つの指輪に誘惑され、自分を見失ってフロドに詰め寄るボロミア。そのボロミアに対するフロドの台詞「Your not yourself!(貴方は自分を見失っている!)」が、「嘘つき!」という字幕にされてしまったのである。
本来の"誠実なボロミア"を知っているフロドの心も、指輪の魔力に誘惑されてしまったボロミアの悲劇も、すべて破壊された。この瞬間ボロミアは"ただの悪役"にされてしまった。ボロミアはこの後戦って命を落とすのだが、「嘘つき!」の台詞の後では、多くの観客にはボロミアの死は、原作者や監督が意図した「指輪に誘惑されてしまった人物の悲劇の死」ではなく「ただの自業自得で死んだ」にしか見えないだろう。「物語をわかりやすくする」という翻訳方針が、こうして物語、脚本、キャラクターをもねじ曲げてしまったのである。確かに、悪人は100%悪人であるほうが判りやすい……。

試写会を見た日の帰り、映画の映像などには大いに感嘆した一方で、字幕によってこの素晴らしい映画が汚物でけがされたように思われ、私は帰りの電車でつり革を握る自分の手が怒りで震えていたことを覚えている。

これが本当に、田中女史が「監修」した翻訳なのだろうか? 田中女史は、単に固有名詞のリストを提出しただけで「監修」にされてしまったのだろうか? 後に翻訳作業の一部に関わった関係者の話によると、田中女史は他にも様々な指摘を戸田氏に行ったらしい。だが、それらのほとんどは戸田氏の「自分は字幕のプロだから」という態度につっぱねられてしまったという。

マスコミと戸田奈津子 “戸田奈津子様は偉大です! 「批判」? なんですかそれ?”

このような『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕に、当然、原作を知るものからは大きな批判が上がった。字幕版と同時に公開された日本語吹き替え版の方は、脚本意図も理解し非常に良くできた翻訳だったので、余計に戸田氏に対する批判が集中した(吹き替え版では「Your not yourself!」は「ボロミアじゃなくなってる!」と訳されている)。ところが映画公開後、戸田氏が映画雑誌に連載しているコラムに以下のようなものが出た。

(前略)
私は本好きであったが、何故か「指輪物語」は手にしたことがなく、この不思議なファンタジーの世界に足を踏み入れたのは今回が初めて。そのために、愛読者達が翻訳版の人名、地名、キャラクターの言葉遣いなど、すべてに深い愛着を持っていて、それを尊重しないと、彼らから轟々と抗議の声が巻き起こることを、思い知った。
例えばビゴ・モーテンセンが扮するアラゴルン。彼にはSTRIDERという、通り名がある。「大股で、サッサと歩く男」というイメージである。翻訳本では、これが「馳夫」(はせお)という日本語に訳されていて、愛読者の方々は、「馳夫さん!」と呼びかねないほど、彼に親しみを感じている。
私も子供の頃、登場人物の名前が全て日本語化されているディッケンズの小説を読んだ記憶がある。それが不思議に思われない時代だったのだ。
しかし今は発音どおりのカタカナが通用する時代。(映画の題名まで、ときにはわけのわからないカタカナで公開されてますものね!)
若い映画ファンには、まず「馳夫」という名が読めるかどうか。また突然、こういう日本名が字幕に出た場合の違和感......とまどい。ここは結局、愛読者の方々に涙をのんでいただいて、「韋駄天」(いだてん。これも若い方はあまり知らないだろう。「足の速い人」のことです)に「ストライダー」とルビをふることを妥協策としたのである。
(後略)

これを読んで「戸田奈津子は『原作オタクが喧しく騒いでいるなあ』と思っているだけか」と思えたのは被害妄想ではないはずだ。これは明らかに自己弁護にすぎない。
戸田氏は「発音どおりのカタカナが通用する時代」に、もうついていけないのではないか? だから理屈をこねながら「韋駄天」などという言葉を使っているのではないか? 誰もこの言葉が「現代向け」とは思わないだろう? こんな言葉を使うくらいなら「ストライダー」のままのほうがまだずっとましだ。大体「若い人には判らない」ことを覚悟しているなら、「馳夫」で何故いけない? それに、字幕にルビが付けられるなら、何故"「馳夫」という名が読めるかどうか"心配する必要がある?
他の映画関係のマスコミが戸田氏について論じるときも、「戸田奈津子は偉大だ」の一点張りである。先に、「字幕問題が週刊誌などで取り上げられた」と書いたが、これを取り上げたのはあくまで一般誌。本来真っ先に取り上げるべき映画誌は、この問題を無視し続けている。例えばeiga.comでは、

とださん【戸田さん】
映画字幕翻訳家にして、多くの大物スターから指名がかかる通訳、洋画界のファーストレディーこと戸田奈津子氏。(終了したが、CX系の番組「ハンマープライス」でもお馴染み)。その仕事ぶりは質・量ともに想像を絶するものがあり、手がけた作品が1年間の週の数を上回った年もあるほど。戸田さんの翻訳の白眉は、逐語的な「正確さ」よりも、字数が極度に制限された中で、「映像の言葉」のエッセンスや情感を巧みに感じとって抽出し、それを読み易くて短い日本語(文字)に置き換えることの巧みさにある。逐語的な「間違い」を発見しては得意気に指摘する人もよくいるが、それはお門違いというもの。また、今後は、淀川先生が亡くなられてすっかり寂しくなってしまった映画界の「顔」の役割も担ってくれるはずだ。関係ないけどそば好きで猫も好き。

と、まるで友達の弁護をするように戸田氏について書いていた(これらの表記を含んだ「映画用語辞典」は現在eiga.comからなくなっている)。日本映画界にとって戸田奈津子はとにかく「神聖で犯してはならない」存在のようであり、この事件のさらに後を見ていると、よりはっきりとそのことが判ってくる。

抗議の署名活動開始 “原作マニアだからではなく、映画が好きだから認められない”

その結果、とうとうファンの手によって「『ロード・オブ・ザ・リング』第二部以降の字幕担当から戸田奈津子をおろせ」「映画の字幕を直せ」という署名を集め、日本の映画配給会社である日本ヘラルドへ、また映画製作元のニュー・ライン・シネマを通して監督のピーター・ジャクソンへ送ろうという活動が始まった。

必ず聞く言葉がある「そんなに字幕が嫌なら英語で見ろ」と。当たり前だ。極端なことを言えば、原作をヨレヨレになるほど何十回も読んでいるファンならば、それこそ台詞が一言も入っていなくても全部話を理解できる。だが私はこの日本語字幕署名運動に協力した。理由は、自分のためではなく他の人々のためである。まずは制作者のために。当然制作者としては、こんなふうに物語を破壊される字幕を望むはずがない。制作者が立派な映画を作ったとしても、彼らの関与しない「映画字幕」で駄作にされるのは、あまりに映画製作者にとって不憫ではないか。
そして次は他の観客のために。この映画を見る全員が、この映画の本来の意味、正しい物語を知っているわけではない。そういった人々が「映画字幕」のせいで物語を誤解し、駄作だと勘違いしてしまう。これは勿体なさ過ぎるではないか。戸田奈津子の字幕のためだけに。

にもかかわらず、日本では未だに戸田奈津子は「最も有名な字幕翻訳者」である。そして原作、あるいは英語がわからない人間は、字幕を見て作品を判断するしかない。それなのに「字幕は戸田奈津子に任せれば大丈夫」という考えが、先のルーカスフィルムのように罷り通ってしまっている。字幕のせいで作品の質が落とされても、英語がわからない観客は「字幕が悪いから」と考えることすら出来ない。これは映画の本来の制作者にとってあまりに理不尽ではないか。この日本の現状をどうにかしなければ何の教訓もなく、同じ事態が別の映画で繰り返されるだろう。
日本の字幕翻訳の現場は酷いと聞く。まず翻訳者が足りない。そして翻訳も一週間程度で行わなければならないという話だ。しかしせめて問題提起だけでも、そして「20世紀最高の文学作品」指輪物語の映画に、せめてそれに相応しい字幕を、それだけでも願って。

限定的勝利 どうせ戸田奈津子解任は無理だと思っていたが……

ファンによる署名運動が開始され、日本の配給会社である日本ヘラルド、さらに監督のピーター・ジャクソン本人へも送られた。
その結果、字幕問題が週刊誌などに取り上げられることとなる。やがて遂に2002年6月13日、日本ヘラルドの公式回答が出てきた。

皆様からご支援頂いてまいりました「ロード・オブ・ザ・リング」は、ロードショー興行(ムーブ・オーバーを含む)終了時において、観客動員数約7百万人、興行収入約90億円を記録達成する見込みとなりました。並みいる大作の中でもひときわ注目される好成績です。この大成功もひとえに、皆様の厚いご支援の賜物と心よりお礼申し上げます。

さて、公開直後より、この公式ホームページ内の掲示板などを通じまして、多数のご質問を頂いてきましたビデオリリース以降の本三部作における字幕翻訳に関しまして、以下の事項を発表させて頂きます。

  • 2002年9月21日にレンタルが開始されます第一部のビデオ(VHS、DVDなど)の日本語字幕スーパー版は、戸田奈津子氏の原稿を使用しておりますが、劇場とは違い、文字数の制限が多少緩和されるため、上記の原稿にビデオ版としての手直しを施しております。
  • 手直し作業には、原作「指輪物語」の共訳者の一人であられる田中明子氏(ご参考までに、もう一人の共訳者であられる瀬田貞二氏は既に亡くなられております)と、版元である評論社の方々に、ご協力を頂いております。
  • 今後の第二部、第三部の字幕翻訳作業におきましても、戸田奈津子氏の翻訳原稿に関し、田中明子氏、評論社にご協力頂く予定です。

映画「ロード・オブ・ザ・リング」をご支援下さっているファンの皆様が、より一層ご堪能頂ける作品となるよう、第二部「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」(2003年春公開予定)、第三部「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」(2004年公開予定)の配給業務に邁進してまいります。引き続き応援下さいますようお願い申し上げます

要約するとこのようになる。「多数の質問があったロード・オブ・ザ・リングのDVDの字幕は、翻訳は戸田奈津子が行う。また文字数の制限が緩和されるため、字幕の手直しが行われる」つまり、ヘラルドは誤訳があったとは認めないし、抗議活動が存在したことも認めない。だが、DVDでは(なぜか)文字数の制限が緩和されるため、それにあわせた修正は行うというものである。
大体私の想像通りの結果だった。ヘラルドとしては、指輪物語が終わってからも自社の映画を翻訳して貰うために戸田氏と付き合っていかなければならない。そのため戸田氏の気分を害するようなことはしたくない。だから誤訳があったことも認めない。そのためピーター・ジャクソンかニューライン・シネマからの圧力でもない限り、戸田氏を切ることはないだろうと。

暫くして、実際に『ロード・オブ・ザ・リング』のDVDが発売された。この「文字数の制限が緩和されたための修正」によって、数多くあった誤訳、珍妙な訳もほとんど消え去り(「嘘つき!」は「正気に戻って!」となった)、第二部、第三部のストーリーともまともに繋がるようになった。

飛び込んだ朗報 ジャクソン監督が戸田奈津子解任に動いた!

だが、「これ以上の進展はないだろう」と思っていたところ、以下のニュースが飛び込んできた。2002年12月12日、ピーター・ジャクソンが、TV番組中に日本語版字幕について触れたのである。

Peter Jackson has confirmed that the Japanese translations of TTT will be a lot better than they were for FOTR. PJ was interviewed by TVNZ before the TT premier in Paris, during which he commented that there had been a lot of complaints from Japanese fans about the quality of the dialogue translations for FOTR.

"They said that whoever did the translation obviously didn't know the subject and was making big mistakes, and they asked that this person not do the translations for The Two Towers - and that's what we've done. We've got someone else to do the Japanese translations this time around."

ピーター・ジャクソンは、『二つの塔』の日本語字幕が『旅の仲間』よりずっとよくなるということを確認した。
ピーター・ジャクソンは、パリで行われた『二つの塔』プレミアにて、日本のファンから『旅の仲間』の字幕の質に多くの抗議が来たことについて、TVNZのインタビューで以下のように語った。

「彼ら(日本のファン)は、翻訳をした人が明らかに作品を理解せずに大きなミスを犯し、『二つの塔』の翻訳をさせないようにと言ってきた。我々はそうした。今回は別の人に日本語訳をさせた」(編者訳)

「戸田奈津子が降板するためには、ピーター・ジャクソンかニュー・ラインの圧力がなければ駄目だろう」まさにそれが実現したのである。
ピーター・ジャクソンは元々原作『指輪物語』のファンであり、トールキンの意志も知っている。トールキンの「言語」の重要性もしっかり理解している。そのため、劇中に登場するエルフ語などについては、トールキン研究家に発音や文法のチェックを依頼しているほどである。また、映画には登場しないことに関しても、トールキンが作った歴史とは矛盾しないように配慮されている。例えばモリアの壁面には、ドワーフの言葉でドワーフの歴史がみっちりと書き込まれている(もちろん映画を見ただけでは絶対に読めないが、実際に翻訳可能で内容もトールキンの設定に従っている)。

『指輪物語』で語られていることは、トールキンの作った数千数万年の歴史のうちのほんの数年間の物語である。トールキンは『指輪物語』の作中の背景で、その壮大な歴史を感じさせるように作っていた。
大抵の小説からの映像化作品ではそういう「目に見えないところ」はみんなカットされてしまうものだが、ピーター・ジャクソンはその「目に見えないところ」までもみっちり作り込んだのである。
そういうみっちり作り込んだところが日本語字幕版ではことごとく消し去られてしまった。「字幕制作者が作品の制作者の意志を破壊していいのか? 文字数などの制限があっても可能な限り映画製作者の意思を尊重すべく努力するのが当然であろう?」と、日本のトールキンファンから抗議の嵐が出たのだ。するとトールキンのファンであるジャクソンは、日本のトールキンファンの意見を受け取り、字幕翻訳者交代という話が出たのである。

大混乱 日本企業の忖度対応 監督発言はどこへ行った?

だが、まだ話は続いた。2002年12月25日、再び日本ヘラルドの公式声明が発表された。

「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の劇場公開をお待ちいただいている皆様へ

「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」は、アメリカで2002年12月18日に公開され、アメリカ国内を含め公開されている国々では記録的な興行成績となっております。
日本公開は2003年2月下旬を予定しており、「二つの塔」の予告編、本編のすでに完了している作業、また、現在進行している作業について掲載させていただきます。
なお日本語字幕作業と字幕協力をお願いする件につきましては、2002年9月に「ロード・オブ・ザ・リング」公式サイトに掲載しました内容と重複いたしますので省略させていただきます。

  1. インターナショナル版の予告編(3分6秒、日本語字幕版、日本語吹替版共)はニュー・ライン・シネマで製作され、既に日本で劇場公開中の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のトップに編集し上映されております。12月21日から劇場公開された「ギャング・オブ・ニューヨーク」には日本国内用予告編(1分30 秒)をトップに編集し上映されております。
    予告編の翻訳作業は、大変異例の事ですが全訳を田中明子氏(原作本の共同翻訳者)にお願いし、全訳から日本語字幕版原稿の作成を戸田奈津子氏にお願いしました。
    さらに、戸田奈津子氏の原稿を再度、田中明子氏と評論社にチェックしていただき、完成原稿としました。日本語吹替版については評論社の全訳から、日本語吹替版原稿を第一部と同じ平田勝茂氏にお願いし、田中明子氏、評論社にチェックしていただき、完成原稿としました。
  2. 本編につきましては、10月中旬に英語台本(完成に近い準備稿)と翻訳用のビデオテープが入手できましたので、戸田奈津子氏がビデオと英語台本のチェック及び英語台本のセリフに番号をふり、評論社に全訳を依頼し、田中明子氏にチェックをしていただきました。
    完成英語台本の到着後、評論社で必要な追加の翻訳等を完了し、戸田奈津子氏の日本語字幕の作業が11月中旬にスタートしました。現在、日本語字幕版原稿の準備稿が上がり、田中明子氏、評論社のチェックが完了したところです。
    今後の作業は、戸田奈津子氏が田中明子氏ほかのご意見を参考に、原稿の修正等の作業を終了させ、1月中旬にはプリントに日本語字幕を打ち込んで試写をし、最終の手直しを行った後、完成原稿とする予定です。
  3. 日本語吹替版もほぼ同様の作業内容で行っており、評論社の全訳を平田勝茂氏に渡し、現在、準備稿が上がって、田中明子氏、評論社にチェックをお願いしております。日本語吹替版の完成プリントは1月下旬を予定しております。
  4. 日本語字幕版本編プリント先付け、日本語吹替版のエンドにつける「スタッフ・キャスト」タイトルに下記のお名前を入れる了解をいただいております。

    日本語字幕プリント

    日本語字幕:戸田奈津子

    字幕協力:田中明子 評論社

    日本語吹替版プリントは第一部同様、本編の最後の「日本語吹替版スタッフ・キャスト」に翻訳:平田勝茂氏、協力:田中明子氏、評論社ほか、翻訳作業にご協力いただいた方のお名前を入れさせていただく予定です。

最近、NZTVのインタビューでピーター・ジャクソン監督が日本で公開される「二つの塔」の翻訳者が変更されたとのコメントを発表されましたが、全く寝耳に水の内容で、現在ニュー・ライン・シネマを通じ、監督に真意を確認しておりますが、まだご返事はいただいておりません。
予告編、本編の日本語字幕作業は上記(1)、(2)の方法で行っておりますが、監督からのコメント、または直接メッセージをいただくことが出来れば皆様にお伝えするようにいたします。
以上、本編、予告編作業の現況をお書きいたしましたが、多くの皆様のご協力を賜り、「ロード・オブ・ザ・リング」を愛されている皆様のご期待に沿うべく努力をいたしておりますので、日本公開までもうしばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。

2002年12月25日
日本ヘラルド映画株式会社/松竹株式会社

一時は決着したと思われた字幕問題がまた錯綜することになった。ピーター・ジャクソンがインタビューで、日本の字幕担当者を「別の人間にやらせた」と発言したことについては、事実だと確認されている。だが、それが日本側にどのように伝わったのかについての説明は、結局日本側から出されることはなかった。
また上記のヘラルドの声明の「『二つの塔』の予告編も田中女史が監修した」ということだが、この『二つの塔』予告に誤訳があるという事がすでに指摘されていて(これは後に字幕が修正された)、さらに誤訳ではないが訳文の不適切さも批判されていた("We are lost. I don't think Gandalf meant for us to come this way." "He didn't mean for a lot of things to happen Sam."というサムとフロドの台詞。ガンダルフを永遠に失った(と思っている)フロドの悲痛な言葉が、字幕で「ガンダルフの思っていた道かな?」「予期せぬことばかりだ」という情緒のない言葉にされていた)。
日本ヘラルドは「戸田奈津子氏が誤訳で抗議を受けた」という事実すら意地でも出さず、戸田氏をひたすら擁護したいようだった。上の公式文章も、まるで最初から何事も無く戸田氏が字幕の仕事を継続しているように見えるし、また「責任を評論社と田中女史に転嫁しようとしている」という意見も頻出した。そのため日本の『ロード・オブ・ザ・リング』公式サイトの掲示板は荒れ、「サーバーのトラブルにより」閉鎖された。
ニュー・ライン・シネマはファンの意見を尊重し、ファンサイトをほとんど公的に(試写にファンサイトの人間を招くほどに)扱って、うまく味方に取り込んでいる。一方日本ヘラルドと松竹は、徹底的にファンの存在、ファンサイトの存在と意志、そして原作者と監督の意思を無視し、字幕担当者の擁護だけを続けている。

戸田奈津子氏はこれらの抗議活動については、「そういう事が起こっているのは知っているが、自分はインターネットをやらないので何を言われているかは判らない」と雑誌の取材に対して答えている。プリントアウトされてヘラルドに郵送された、数々の誤訳の箇所まで具体的に指摘したはずの大量の署名はどこへ消えたのだろう?

映画字幕というのは制限だらけだ。一定時間内に限られた文字だけで意味を伝えなければならないのだから。そのため時には文章を大きく省略したり、意訳したりする必要もある。
だが当然ながら、文字数が大きく使えるならば使うべきであり、観客に読む時間が十分あるならそれだけの文章を載せるべきだ。だが、それらの努力が『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕で行われたようにはとても見えない。そして「判りやすくする」という余計なお世話まで付いてくる。

この翻訳問題には必ずついてまわる誤解、「マニアが小うるさく騒いでいるだけ」「字幕の制約を理解せず表面的なことだけを言っている」があるが、この事態はそんなところで行われているのではない。これは映画界全体の問題だ。戸田氏の人格を攻撃しようという気はない。だが、戸田奈津子個人崇拝だけは断固として阻止されなければならない。さもなければまた同じ事が繰り返される。

字幕というものは、映画館の音響やスクリーンと同じものである。監督の意図を正確に伝えればよい。余計なことはしなくても良い。音響がヘボかったりスクリーンが見にくかったりする映画館はたくさんあるが、そういうところは映画を見る人間が自分で避け、良いところを選ぶことが出来る。だが、字幕ではそういう事が出来ない。そのため「抗議運動」などという(比較的)消極的な運動しかできないでいる。

だからせめて、この字幕問題について多くの人が知ってくれればと願いつつこの文章を書いた。それが字幕の付く全ての日本で公開される映画の質に繋がるのだから。

追記

2003/01/20

またロード・オブ・ザ・リングの字幕について動きがあった。LOTR字幕抗議のための英語工房のサイト制作者の方が、ヘラルドの招請を受けて試写を見てきたということである。詳しい話は先方のサイトにあるので省くが、まず第一に『二つの塔』の字幕はかなりよいものになっているということである。ようやくヘラルドもファンやファンサイトの存在を無視する、あるいは適当にあしらうのを止めたようだ。
結局ジャクソン監督が「日本字幕担当者を交代させる」といった話がどうなるのかは未だ不明だが、「まともな字幕」という点においては、問題は決着したと言ってもいいだろう。

2003/02/13

公式サイトの字幕に関するコメントについて、ニュー・ライン・シネマ(NL)からの声明が発表された

ニューライン・シネマ製作「ロード・オブ・ザ・リング」3部作の第2部「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」は2月22日に日本公開となります。

「ロード・オブ・ザ・リング」第1部をご覧になったファンの方々から字幕に関する指摘を頂きました。そのため、この第2部の字幕製作にあたっては、ニューライン・シネマと日本ヘラルド映画が日本語字幕をよりよいものにするために協力体制を取ることにしました。

映画をご覧になる皆様がより満足して頂けるように、我々は、原作の翻訳家の一人である田中明子氏と原作の出版元である評論社に全訳をお願いし、その原稿をもとに、戸田奈津子氏に字幕を作成してもらいました。田中氏と評論社は再度字幕原稿をチェックし、完成した日本語字幕は英語に翻訳され、ニューライン・シネマが最終チェックを行いました。以上の過程を経て最終的にニューライン・シネマが承認した日本語字幕が完成致しました。

ニューライン・シネマは、字幕作業に携わった関係者全員の努力により、今回の日本語字幕がよりよいものになったと確信しております。そして、日本の観客の皆様が「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」を楽しんで頂ける事を願っております。

ここでも「指摘」という言葉になっている。原文が不明なので、本当にニューライン・シネマが「字幕に関する指摘」と言ったのかどうかは判らない。

2003/02/20

プレミア日本語版 2003年4月号に、字幕に関する特集が掲載された。もちろんこれは『ロード・オブ・ザ・リング』字幕問題が発端となって最近注目されるようになったことだが、この雑誌の特集では『ロード・オブ・ザ・リング』に限らず、それ以前にあった字幕騒動である『フルメタル・ジャケット』で戸田氏が解任された話や、字幕制作の行程、字幕が抱える問題、字幕の世界の現状などについて書かれている。

残念ながら、業界関係者のなかにはオフレコでしか話さないばかりか、字幕に問題があるかどうかさえ論じようとしない人がいることに驚かされました。取材を申し込む電話をしてもなしのつぶてだったり、はっきりとしたことを言ってくれなかったり、一切口を開こうとしない人もいました。ある業界通に言われました。字幕はデリケートな問題だから、と。
でも正直な話、私にはどこがデリケートなのかよくわかりません。私たちが知りたいのは字幕のシステムとその成果であって、企業秘密や国家機密じゃない。しかし、そこは保守的な業界のこと、変化という発想に対してアレルギー反応を示すのです。そのせいで、映画業界はいまだに不透明です。昔からこうやってきた、というだけで、今も変わらないことがいくつもある。でも極端な話、「昔からこうやってきた」と言うのなら、今も私たちはサイレントのモノクロ映画を見ていることになるのでは?(前書きより)

吹き替え版などの翻訳家も公開作品の字幕を手がけられるだけの基礎力はもっているのだが、進出するすき間は狭い。徒弟制度、権威、コネ。それらが字幕翻訳の質そのものにも影響を与えているようだ。
制作担当者は「公開作品の字幕は確かに誤訳が多いし、言葉のセンスも悪く、つい爆笑してしまう」。だが「たとえばどんな作品?」と聞くと、「作品名で字幕翻訳家が誰かわかるので、伏せておきます」。今回の取材では仕事を干されるのを恐れてか、名前を伏せたうえでの発言も多かった。そんな体質ではより良い字幕を目指した建設的な議論も生まれにくい。映画評論家の柳下毅一郎氏は、字幕翻訳家について「何かあると『字幕は映画の補助にすぎないですから』といった言葉が逃げ口上としてよく使われるんです。名前を大きくクレジットしているのなら、それ相応の責任意識をもつべきだと思いますね」。(特集記事より)

私は以前、映画雑誌などの専門書が『ロード・オブ・ザ・リング』を含めた字幕の問題を黙殺していると批判した。何故そういう状態になっていたのか、上の文章を見れば読めてくるように思う。
この特集は、「やっと映画雑誌も字幕の問題について初めて正面から向き合う気になった」という点で評価すべきだろう。だがやはりこの特集にしても、誰の字幕が悪いとか、何の映画の字幕が悪いとか、そういう具体的指摘はほとんど見られなかった(そう指摘するのがこの特集の目的ではないかもしれないが)。
映画が評論家によって「この映画は駄目だ」と非難されることが映画雑誌で起こるのであれば、「この映画の字幕は駄目だ」という非難も当然あるべきなのだ。「監督や俳優や脚本家が非難されることが許されるのに、どうして字幕翻訳家の非難は許されないのか?」と。だが、それが許されるまでにはまだ時間がかかりそうである。

字幕問題についての参考 LOTR読み解き英語工房

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